【自転車奔走記】第718回。

【ケアマネの自転車奔走記】連載・第718回。

3月最初の日曜日、皆様いかがお過ごしでし
ょうか?急に暖かくなりましたね。先週の日
中は汗ばむ日も多かったです。いよいよ春本
番が見えてきました。お花見や行楽など楽し
みも増えると思いますが、寒暖差の強い日が
多くなります。体調管理はしっかりお願いし
ます。花粉の飛散も本格化しますので、お早
目の対処を。
では【自転車奔走記】はじまります!
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たきび版:介語苑・77-5。

【語句】 
老い

【意味】
①年老いること。年老いた人
②身体的に老化することはもちろんのこと、
職場や家庭などでの社会的変化・退行を
伴うとされる現象。

【老いは、いつ価値が変わったのか?社会的
有用性と人間の尊厳】の連載ですが、今回は
幕間になります。

今日は、私がなぜこの連載を始めようと思っ
たのか、そしてどんな結論を目指しているの
か?について少しお話をしようと思います。
契機は半年ほど前に遡ります。ある夜、寝付
けないので動画サイトをチラ見しながら流し
ていましたら、超初心者向けのハイゼンベル
グの不確定性原理の解説動画があったんです。
学生時代に理系の友人から仕入れた、聞きか
じりの量子論の知識を思い出しながら楽しく
視聴していましたが、ふと『不確定性って生
きるという行為に似ているな…』と思ったん
ですね。自分自身、人生は後半戦の真っただ
中ですが、未だ(自分が今どこにいるのか?)
そして(自分は何者で、何を為し、どこへ向
かうのか?)をふとした拍子に考えてしまい
ます。

不確定性原理に基づけば、それらを同時に、
正確に、確定的に知ることはできないんです
ね。量子論では、粒子の位置と運動量を同時
に確定的に測定することはできないとなって
います。生きるという行為に置き換えると、
今自分がいる位置を定めようとすれば、取り
得る行為や活動(運動)の幅は広がり曖昧に
なります。逆にこれからの未来を描こう(運
動)とすれば、現在の立ち位置は曖昧になり
揺らぐ。結局のところ、生きるという事は、
どこまで行っても非決定論的なんだな…と。

にもかかわらず、私は確定論的な解、決定論
的な物語を得たいと思ってしまいます。例え
ば、「努力すれば報われる」とか。「選択す
れば結果が出る」「原因があれば帰結がある」
なんでも良いんですね。要するに生きること
が、もっと言えば世界がそのように整然と説
明可能であってほしい!という願望です。で
もよくよく考えると、その願望は非決定的な
自己に対する本能的な忌避で、人間の存在は
本来、不確定性の中の彷徨、言い換えると揺
らいでいるものではないか?とも思ってしま
います。

連載第2回で少し取り上げたフランスの哲学
者ジャン=ポール・サルトルが区別した「即
自」と「対自」という概念を借りれば、私は
事実としてそこにある存在でありながら、同
時に自らを意識し、問い、意味づけようとす
る存在でもあると言えます。ですが、量子論
的には自分を捉えようとするその瞬間、自分
はすでに変化していることになります。逆に、
自らへの問いや意味づけを突き詰めていくと、
存在自体が揺らいでしまうという結果になり
ます。事実として存在する自己と、存在のな
かに意味付けを求める自己、そしてこの二つ
の自己を観察する第3の自己がいて、不確定
性が故に両方を同時に知覚できない。この捉
えきれなさの周縁に生じる感覚、それが不安
の正体なのでは?不安は欠陥ではなく、不確
実性という条件のもとで自己を知覚しようと
するとき、必ず立ち上がる影のようなもので
は?と考えるようになりました。

不安というのは、感情ではなく私たちの存在
の影として、常にそばにあるもの。そして不
安を排除しようとするのではなく、その正体
を問い続ける営みこそが哲学の始まりだった
のかもしれませんね。不安は存在の影。であ
るならば、何をしようが、何を考えようが必
ず立ち現れます。だったら、私が為すべきは、
不安への対峙でも払拭でもなく、ただ今をよ
り良く生きることではないのか?

このことを、連載後半で一緒に考えてみたい
と思っています。ということで幕間でした。
次回から本編再開となります。
では、またお会いしましょう。
お相手は広森でした!
See You Next Week☆