【自転車奔走記】第719回。

【ケアマネの自転車奔走記】連載・第719回。

日に日に、ずんずんと春らしくなる3月の日
曜日、皆様いかがお過ごしでしょう?雨の日
が増えてきました。一雨ごとに暖かくなる早
春の気候ですね。天候の変化、そして寒暖差
はまだまだ続きます。体調管理はしっかりお
願いします。インフルエンザは少し落ち着い
たみたいですが、引き続き感染症予防にも十
分ご注意を!
では【自転車奔走記】はじまります!
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たきび版:介語苑・77-6。

【語句】
老い

【意味】
①年老いること。年老いた人
②身体的に老化することはもちろんのこと、
職場や家庭などでの社会的変化・退行を
伴うとされる現象。
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『老いは、いつ価値が変わったのか?社会的
有用性と人間の尊厳』の連載再開です。

第4回は【老いるとは、価値を失うことなの
か?】と題してお送りしますが、今回はその
#1・「現代社会で自分と向き合うこと」に
ついて一緒に考えていきたいと思います。

今までいろいろと考えてきましたが、老後の
不安は、加齢という生物学的な現象や単なる
生活保障の問題ではないことが、朧気ながら
見えてきましたと思います。では何が不安の
由来となるものなのか?私はそこで、それは
近代~現代社会が前提としてきた「個人像」
そのものではないか?という仮説を立ててみ
ました。

近現代社会において個人とは、基本的に「あ
る」存在ではなく「為す」存在として理解さ
れてきたと考えています。「為す」とは働く
こと、成果を上げること、役割を果たすこと
と言えます。そして個人は、その有用性(作
用性とも言えますが)を通して他者に認識さ
れ、社会の中で位置づけられ、その社会での
位置づけが個人のアイデンティティの重要な
構成要素となっています。ここで重要視した
いのが、有用性が常に対他的に認識されると
いう点です。自分が役に立っているかどうか
は、社会の中で自己を相対化し、社会から浴
びせられる自己へのまなざしを通して認識さ
れます。つまり、他者からのまなざしを通し
てしか確定しないと言う構造です。この構造
は、私たち現代人にとって古くからの因習や
封建的人物観からの解放…自由と自律をもた
らしました。ですがその反面、ある脆弱性を
内包していたんですね。それは、「為す」こ
とによって自己を確認する構造は、「為す」
ことが揺らいだ瞬間に自己も揺らぐ、という
ことです。

自己の揺らぎ、これが今回のキーワードにな
ります。存在は、本来ただそこに「ある」も
ののはずなんです。そこに「ある」だけで価
値がある事、私はそれを「尊厳」と解釈して
います。ですが、近代社会では、「為す」こ
とが存在証明の主要な手段となり、「ある」
ことは社会の中で副次的なもの、「為す」こ
ととネガポジの関係になりました。そしてこ
こに根本的な相克を私は感じるんです。それ
は、(人間は本能的に、確固たる「ある」自
己を感じたい)という希求と、(社会は「為
す」自己を求め続け、それに応じたい)とい
う欲求です。

そして、この相克の帰結として生まれたのが、
尊厳と自己の分離だと考えます。本来、尊厳
は存在そのものに付随するはずの唯一無二な
もののはずなんですが、近現代社会では、尊
厳が自己から切り離され、尊厳さえも個人を
構成する一要素として扱われるようになりま
した。「尊厳を守る」という発想は、尊厳が
侵害され得るパーツであることを前提にして
いることからも、そのことが見て取れます。
このように、尊厳が社会的自己とは別に管理
されるものとなる近現代社会では、社会的自
己と尊厳…つまり存在としての自己が乖離し
てしまう結果となりました。では、私たちは
どのようにしてこの乖離した社会を生きてき
たのか?多くの場合、私たちは両者のバラン
スを取りながら自分を維持しているのだと思
います。例えば、仕事を通して社会的に確認
されつつ、内面では「それでも自分は自分だ」
と感じ続ける、といった具合です。或いは社
会的な有用性を示そうとすればするほど、存
在としての自己を希薄に感じてしまったり。
自己を注視し続けると社会から浮いた感じに
なったりですね。
そして、近現代に生きる私
たちは、この均衡の上に成り立っている自己
を見つめ、感じながら日々を過ごし、未来を
見ています。ですが、この均衡が崩れたとき、
私たちの自己、即ち私たちのアイデンティテ
ィは、ある危機を迎えるんですね。
ではどん
な危機なのか?
続きは来週…
では、またお会いしましょう。
お相手は広森でした!
See You Next Week☆