【ケアマネの自転車奔走記】連載・第701回。
11月も後半戦に入りました。皆様、いかが
お過ごしでしょうか?天気が周期的に変わり、
雨の日が過ぎるごとに空気が冷たくなってい
きますね。そろそろ冬支度が必要かな?と思
っていると、初秋並みの暖かい日が来たり…
早く気候が安定してほしいものですね。まだ
まだ、天気の周期的な変化は続くようです。
それと、全国的にインフルエンザの流行の兆
しがあります。風邪予防、体調管理には十分
ご注意下さい。予防接種はお早めに!
では【自転車奔走記】はじまります。
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たきび版:介語苑・76-2。
【語句】
マネープラン
【意味】
結婚、出産、住宅購入、老後資金など、人生
のイベントで必要となるお金について、いつ、
いくら必要になるかを具体的に計画し、資産
形成の方法まで含めて考えるお金に関する計
画。(類)ライフプラン:人生の計画・生き
方の展望。
【解説】
短期連載企画【日本社会がたどってきた〈老
い〉と〈お金〉の文化史】
◎第1回
家族が支えていた時代——老後のマネープラ
ンが存在しなかった社会
【語句】の項でマネープランを取り上げたの
ですが、高齢社会のマネープラン、つまり
「老後の資金をどう準備するか」という問い
は、数年前にメディアで取り上げられ話題と
なった老後資金2000万円問題など、今では
当たり前に論じられているものですよね。実
のところ、老後の人生設計や老後の資金計画
はずいぶん前から存在していましたが、どち
らかというと漠然としたプランで、マネープ
ランのようにライフプランと連動し、しっか
りとした収支予測に基づいたものではありま
せんでした。では、なぜマネープランがメデ
ィアでも頻繁に取り上げられ、人生設計の定
番テーマになっているのか?
結論を先に言うと、老後のマネープランが必
要であるという感覚は、実は非常に新しいも
のなんです。日本の歴史を俯瞰すると、老後
の生活を個人が準備するという発想は、ごく
最近になって生まれたものに過ぎず、むしろ
長い歴史から見れば、老いは家が支えるもの、
これが当たり前でした。では、近世から戦前
にかけての日本社会では、老後とお金はどの
ような関係だったんでしょうか?第1回は、
現代のマネープランとはまったく異なる「老
後が個人の問題ではなかった時代」の姿から
見ていきましょう。
その1.
「老い」は“家”に包摂されていた
かなり遡りますが、江戸時代の日本の社会は
「家(いえ)」を基本単位として構成されて
いたことは皆様もご存知だと思います。当時
の「家」は現代の「家族」とは違い、より広
い範囲、血縁や継承者、そして場合によって
は使用人も含み、生活の生産と消費を一体的
に担うという、半ば共同体であり、半ば経済
体としての性質を強く持つものでした。その
ため、家を構成する個人の生活は基本「家産
(家の財産)」と一体化しており、個人貯蓄
や私的資産とは切り離されていませんでした。
どういうことか?というと、所有する田畑や
家屋は「家」の所有物であり、働ける者がそ
の資産を使って「家」の経済を担い、家産を
維持し個人を養うということです。そしてそ
の「家」の中で老いていくいくということは、
その中で役割を変えつつ「家」の構成員とし
ての生活を続けるということになります。言
い換えると、家産が維持される限り、老後の
生活も維持されるという訳で、家が生活を保
障する以上、「自分の老後を自分で計算する」
という発想は生まれようがなかったのです。
その2.
地域コミュニティが支えた“共同の安心”
では、社会面ではどうでしたでしょうか。当
時は、村落や町内の人間関係も非常に密接で、
農村では講(こう)・頼母子講、都市では町
内組織など、相互扶助の仕組みが整っていて、
そのことが安心に繋がっていました。例とし
て頼母子講を見てみましょう。頼母子講は江
戸期の金融の一種で、仕組みは現代の共同積
立に近いシステムで、参加者全員が一定額を
出し合い、必要な人がまとまった金額を受け、
最後は全員が順番に受け取るという互助的な
金融でした。現在でも細々と続けられている
地域もあるようですが、ここで注目したいの
は、当時の頼母子講には、単なる金銭の循環
以上に、「お互いさま文化」とでも言うべき、
地域共同体での互助の強い力が働いていたと
いう点です。そのため老後や病気は「自分の
問題」と考えられず、共同体の中で自然にカ
バーされるものでした。このことから、江戸
期の老後というのは、あくまで「家」の中で
起こる人生の一部分でしかなかったことが推
察できます。そして明治期になり、この「家」
制度はさらに強化されます。明治以降に登場
した戸籍制度や家制度は江戸時代からの「家」
を半ば制度として固定し、家父長による統率
や扶養義務の強化、そして家単位の財産継承
という仕組みを整ええるものでした。この時
代も、老後はあくまで「家」が保障するもの
で、誰かが蓄財して備えなければならないと
いう発想はありませんでした。そして「老後
の生活を個人で計画する」という行動がほと
んど見られない状況は、昭和戦前期まで続く
ことになります。
その3.
なぜ「老後のマネープラン」の不存在
では、一度今までのお話を整理してみます。
① 江戸期から昭和戦前期まで、老後を支える
単位は個人ではなく「家」そして「地域共同
体」であった。
②老いが「家の中の役割」として存在してい
て、年齢に応じた役割の移行はあっても、経
済的な切断を意味するものではなかった。
そして、当時の社会情勢として、
③貯蓄という概念が限定的で、現在のように
給与が定期的に入り、余剰を貯蓄するという
行動をとる人は少数派だった。
④そもそもリタイアという概念がなく、農村
でも商家でも、老年期の働き方は柔軟で、完
全に働かなくなる前に、徐々に役割を減らし
ていくスローダウン型の老後が一般的でした。
このことは、当時の老後というものが、家や
地域共同体の中で起こる、連続性を持った老
いの一過程に過ぎなかったことを示唆してい
ます。これこそが、冒題にあげた「老後が個
人の問題ではなかった時代」の実相であり、
老後のマネープランというのは、現代のいわ
ば発明品であることを示唆しています。そし
て、その事こそが、当時は老後のマネープラ
ンが存在しなかった理由になるんですね。
では「現代の発明品」はどのようにして登場
したのか?「家」による老後の保障がどのよ
うに変化していったのか?これらについて次
回、「国家と企業が老後を支えた黄金期」と
題して、その転換点を見ていきます。
というところで今週はここまで。
次回もお楽しみに。
お相手は広森でした!
See You Next Week☆

